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ページ番号793番
★ 響子の筆おろし(加冠の儀) ★ 珊瑚七句 (東京都) 2010-12-10
響子が結婚を機にやめていた茶道をはじめたのは2年前だった。母親から毎年プレゼントされる着物を畳みながら、「タンスのコヤシばかり増えちゃって」 と笑うので、「お茶でもはじめたら」 と言ったのがきっかけでした。弟子入りした師匠は60前の女性で、歌舞伎役者Aの“タニマチ”と“追っかけ”を合わせたような後援者の一人なのです。
だから地元東京はいうに及ばず京都や名古屋でAが出演するときは必ず初日と千秋楽のいずれかにはご夫妻で顔を出し、ご主人の都合が悪い時はお弟子さんに声を掛けるそうです。まぁ、出費もそうとうなものなので何かと理由を付けて断るお弟子さんも多いのですが、響子も三回目はさすがに断りにくかったようで・・・、東京での公演なので二万円位の出費で済むという読みもあったようです。 歌舞伎にさしたる興味もないまま出かけた妻が帰ってきていきなりいうんですよ。 「よかったわー、アナタ」 と感極まった顔で。 そして娘たちいるのに気付くと 「異次元の世界というか非日常の世界に酔ったわ。 パパありがとう!」 と。 わたしはベッドを共にしながらどこがどうよかったのか訊いてみました。 「先生に連れられてAさんの楽屋をお訪ねしたの。 私を紹介してくれたのよ」 「・・・」 「先生とAさんはたぶんお友達同士なのね。『君も人が悪いな。こんなに上品な着こなしをするお弟子さんを一年以上も隠しておくなんて・・・』 とすねて見せる目は先生にさすがだね、と一目置いているのよ」 「なるほど、“タンスの肥やし”が日の目をみたというかお役に立ったというわけだ」 「職業柄着物については目利きなのよ。 裕福な家庭の奥様に見えたかもね・・・」 「それで・・・」 「それでね・・・、楽屋でのAさんはそこらにいる五十半ばのオジサンなのよ。それと舞台で見るAさんとの落差ね。私が感激したのは・・・」 「それだけ?・・・」 と先を促すとしばらく間があってから話し出します。 「Aさんが踊る場面があってね・・・、踊りの“間”で動きが一瞬止まる箇所があるのね。そういう時、私の方をチラッと見るの。男の“流し目”というのかな、ライトが入っているから目が濡れていてすごっく色気があって、周囲の人も私に視線を送っているのは分かるのね。。。踊りの場面ではAさんの相方を務めているような感じになるのよ」 「歌舞伎は何度か見たことがあるからその感じはわかるよ」 「先生も気が付いて私の袖を引いてにっこりするし、私、Aさんの目で何度も殺されたの」 「なるほど、二人は至福の時を共有できたわけだな」 と感心してみせると 「わたし、役者狂いをする女性の気持ちは理解できたけど、虚構と現実を取り違えるようなことはありませんから・・・」 と響子はいいます。 こんな経緯があって1週間後、北海道へ出張する出掛けの玄関で先生のお供でA氏に懐石料理をご馳走になるという話を聞いたわけです。 「あなた、火曜日に先生のお供で食事に行きます」 「どこでさぁー」 「青山の懐石料理のお店ですって」 「どういう風の吹き回しなんだよ、茶会でもあるのか」 「そうじゃないの。ホラこの前の(歌舞伎役者)Aさんのご招待なんですって・・・」 「君がなんで?・・・」 「私こう見えても社中じゃ、先生のお気に入りなのよ」 「・・・」 「最初はおことわりしたの。でも、ご主人の都合が付かなくなちゃったからぜひと誘われたのよ。Aさんにご主人のかわりにお弟子さん連れてきたらと言われたらしいの・・・」 「フゥーン、それで数多の社中から君に白羽の矢がね・・・覚えがめでたくてけっこうだね」 と皮肉まじりにいいました。 「だって、先生ね・・・Aさんが私のことをお気に召しているなんていうのよ。まるでご指名があったみたいに・・・、こうまで言われたらお断りできないわ。先生の顔を潰しちゃうし、角が立つでしょう」 「まぁ、“タンスの肥やし”を引っ張り出して、“芸の肥やし”にでもしてもらったら」といって外に出ると玄関の扉を開けた妻は、「あなた、いいのねー」 と後ろから声を掛けます。私は歩きながら頭上で手を組みOKのサインを出しました。 冬の北海道から晩秋の東京に戻って1週間ぶりに響子を抱いた。彼女が佳境に入る気配を感じて指揮棒を止めた。それは二人の約束事になっていて、最終楽章のタクトを振る前に私がMCをささやき響子をイマジネーションの世界に導くためだ。 イマジネーション? どういう意味という方も多いと思う。 たとえばこんなことをいいます。 「響子、今日はピアノの先生だ」 彼女がアラサーの頃、娘のピアノの先生に何かと目に掛けてもらったあげく、関係を迫られたというエピソードがあって、今日はその先生を演じるよという意味なのです。あの時想いを遂げられなかった先生に成り切って、過去の恨みつらみと今想いを遂げている悦びをセリフと体で表します。 響子は、「あぁぁ・・・、あぁぁ、アナタ、センセイ・・・」 とイマジネーションの世界に引き込まれていきます。 で、その夜は響子がA氏の食事会に行ったことを思い出しこう言いました。 「この前、松茸は出たの・・・?」 妻はあきらかに肩透かしをくらったような様子でしたが、すぐ「ええ」と小声で頷きます。 「今日は部長さんでいくぞ」 とか過去に関係のあった人物の名前が出ることを期待していたのでしょうか。 「歯ごたえはどうだった・・・、あったの?」 と訊くと黙って頷きます。それを見て 「それはよかった。結構大きいのが出たんだね」 となんだか私までうれしくなって 「でもこれと比べてどうなの?」 と冗談をいいながら動きはじめたんです。 うまくいえませんがあんな妻を見たことはありませんでした。スイッチが入った人形のようにカラダが反応するんです。黙っているので動きを加速させ、「響子、本物が出たんだね?」 と問う私の声もどこか上ずっていました。その瞬間ピクと体を震わせた目尻から一筋の涙がこぼれ、「あなた、ダメよー、ユルシテー」 といつものように頂に上りつめたのです。 こういう場面で妻がわたしに涙を見せたのは新婚初夜以来ですから、どれだけ彼女の気持ちが昂ぶってイマジネーションの世界に浸っていたかご想像していいただけるでしょう。 終わってから耳元で、「響子・・・、芸の肥やしになってあげたの」 と訊きました。 ぐったりしていた妻は私にしがみ付いてきて、「あなた・・・、されたのよ・・・」 とつぶやきます。その声も、どこか虚ろでA氏との余韻にひたっている感じさえして、萎えた私の男が動きはじめた妻の女の中から締め出されて行くのです。 傍でわたしの後始末をしている響子にききました。 「それでさぁー、結局どうなの。松茸のサイズは・・・」 「あなたって、バカねえー。。。 そんなこと分かるわけないでしょう」 と言い捨てトイレへ向かう妻。 「だって、食べたんだろう・・・」 と後ろから声を掛けるわたし。 戻って背を向けた妻の乳房に右手をまわすと、彼女の寝物語が始まったのです。 「さっきもいったでしょう、“なってあげた”のじゃなくて“されたの”よ」 「無理やり食べさせられた?・・・」 「そういうことじゃないの。 あなたが言ったようにAさんの芸の肥やしにされたのよ」 ことのいきさつは次のようでした。 料亭に向かう車の中で師匠から急用が入ったので8時に退席させてもらうから後をお願いしますと言われたそうです。青山にある料亭に約束の時間の6時に到着すると和服姿のAが迎えてくれて、食事は間もなく始まったそうです。そして8時ちょっと前に仲居が車が来た旨を告げると師匠は二人に挨拶して帰ったそうです。 「その仲居さんが、『しばらくしたらデザートをお持ちしますから』 と言ったのでほっとしたのよ」 「どうして」 「だって変でしょう。先生の付き人みたいな私が長い時間Aさんお相手をするのは・・・」 「まぁ、君の性格からすればそうだろうな」 「だから、会食中も先生に気を遣っていたの」 「なるほど、Aサマになれなれしい態度を見せたらいけないとか」 「Aさんも先生に気をつかっているの。 私なんか眼中にないというみたいに・・・」 「まぁ、しょせん師匠のご主人の穴埋め要員だからね」 響子が言うには二人きりになると部屋の空気が微妙に変わったという。A氏は今までの市井の顔から舞台で見た歌舞伎役者の顔になったというのだ。 歌舞伎の楽屋話を披露する間の取り方やちょっとしたしぐさがお笑いの舞台そのものだったという。 「あなた、目が全然違うの。情熱的というのか・・・、二人でお芝居をしているようなかんじなのよ」 「・・・?」 「わたしも引き込まれて、『ラブシーンの感情移入はスムースですか』 とお聞きしたの。お相手は女形でしょう」 「そうしたら、『そりゃー私も男だからね。でもそういうときは過去の経験を頭の中で置き換えるわけ』 とお笑いになるの」 「ウン、ウン」 とわたしは話に引き込まれる。 「わたし、意味するところは見当がついたのに、あまりにも話がおもしろいので、ついつい調子に乗って、『たとえばどんなことなんでしょうか』 とお聞きしたのよ・・・」 響子に酔っていたのかと聞くとそんなことはない、あなたと呑みに行ったとき程度ですと答えます。 まぁ、この辺の彼女は少しタガゆるんで男として扱いやすいんです。 「そうしたら先生、両手でテーブルの縁をつかんで私を見据えているのよ、『なんて意地悪な質問をするんだ、あなたは・・・』 という眼差しで、思い出はたくさんあるらしくしばらく考えていたわ」 「なるほど、倉庫を検索していたわけだ」 「そしてね、奥さん悪いけどちょっと立ってといわれって立ち上がったのね。私のつま先から顔までジロリと見て、着物が似合うねとか佇まいがいいとかほめるの」 「そりゃあ、そうだろう。だれだってそう思うさ」 私は自分の思いを率直に述べました。 「Aさん、わたしのところに来てお酌するのよ」 「ウン」 「飲み乾して返盃しょうとおもったら、肩を抱き寄せられ“身八つ口”から手を差し込まれちゃったの」 「身八つ口?」 「あなた、和服の脇の下には手を差し入れられるスリットがあるのよ。それを身八つ口というの」 「なんのために? 」 「殿方が手を入れるためらしいわ。Aさんの説よ。ダメヨ先生と抗議したら、『奥さん、ここはこうゆうことをするために開いているの』 と涼しい顔で乳房をもむのよ。 『襟元からだと着付けが崩れるけど、ここなら心配ないから』 なんていいながら・・・」 「そしてこういうの、『お座敷でこういうお遊びをした女性を思い出しながら濡れ場を演じるんですよ』 なんてね」 「なんだか響子が藪を突っついて蛇を出した感じだな」 「そうでしょうー! 私にその気が見えたみたいにいうのよAさんたら・・・」 「どうして?・・・」 「和服の女性が男を右隣に座らせるということはそういうことを許すという含みがあるんですって」 「右隣をすすめたの?」 「だって上座なのよ、しかたないでしょう」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ A氏は部屋の照明を少し落とすと、「これで入り口の行燈も暗くなるから密談中ということで誰も来ないから安心して」 というと唇を重ねてきたそうです。響子は成り行きに身をまかせ着崩れしない程度にお座敷遊びに付き合いましたが、師匠の弟子として言の葉や立ち居振る舞いに気を配ったそうです。 部屋の明かりを元に戻すと間もなくデザートが運ばれてきて、仲居の袂にさりげなくポチ袋を入れるA氏に、ここが彼のホームグランドであることを実感したという。 ここで何かあったことは仲居も承知してはずなので、顔を合わせるのはいやだなと思っていたが、私は歌舞伎役者Aの客なのだと気が付き堂々としていられたそうです。 「仲居が退室するとAさんがメロンにナイフを入れながらいうのよ、『実は響子さん、今日はお願いの件があってお招きしたんです』って、メロンを見ながらよ」 「響子さんか・・・」 思わず私はため息が出てしまいます。 「言いにくそうなのでいやな予感がしたのよ。でも 『なんでしょうか』 と聞いたのね」 「聞いてみなけりゃはじまらないよ」 「『こういう事は短刀直入にズバッと言わないと誤解を受けますから』 と前置きがあって『この件についてはアナタの先生にもご相談した結果なんです』 となかなかズバッとこないのよ」 「君の先生に相談ってなんなの?」 「ズバッと言うわよ。 『甥の筆下ろしをお願いできないだろうか』 と言われたのよ。 書道の免状を持っているのを知っている先生が、お習字の先生として私を推薦したのかなと思ったりしたけど、なんだか釈然としなくて、そうしたら、『15歳になる甥のB君を一人前の男にしていただけないだろうか』 ということなの」 「甥のB君は悪筆なんだろうね。歌舞伎役者は揮毫を頼まれるケースもあるから・・・」 「あなた、真面目に聞いて・・・」 というとA氏から聞いた話をはじめた。 A氏は最近の歌舞伎の後継者が芸能人やタレントと浮名を流し彼女らと結婚する風潮に危機感を持っているとのこと。昔の歌舞伎役者は14歳か15歳になると”筆下ろし“ということで女性を初めて経験する風習がありました。お相手は母親に近い年齢で子持ちであることが好まれたようですが、もちろん母親のように母性本能が豊かで、美貌もカラダの資質にも恵まれた女性が選ばれるわけで、贔屓筋がネットワークを使ってそのような未亡人や人妻を探したそうです。 その効用は初体験で母親のような女性から性の手ほどきを受けることにより、遊び相手と結婚相手をはっきり区別するようになるという。そして結婚相手はしっかりした目を持った人に選んでもらおうという気になるそうである。 A氏は舞台のこと以外はすべて奥方のリードにまかせ切っていて、これが心地がいいらしいのです。つまり自分の経験をふまえ、伝統芸能の将来を見据えて妻に頼んでいるのだというのです。妻は夫に相談してから返事をするとその場を切り抜けたそうです。 「君の気持ちは・・・」ときくと、「あなた次第よ・・・」 とつぶやく妻を後ろから強く抱きしめてわたしの思いを無言で伝えます。そして力を抜くと妻は語りはじめます。 「先生がAさんに紹介したのよ。歌舞伎鑑賞も、会食もそのため・・・」 「歌舞伎で顔見世、会食で資質の検査か・・・、名誉なことではあるが、念がいっているね」 「ほんとうに大切なお役らしいの。B君の将来を左右するくらいの」 「まぁ、武士の元服式かな、14、15歳で前髪を剃って幼名を改め、加冠の儀にのぞむ」 「カカンノギ?・・・」 「大人になった頭に“烏帽子”をかぶせることだよ。その烏帽子親を頼まれているんだ」 「エボシオヤ?」 「烏帽子を被せる人。父親より上位の男性が務める、彼の後見人といったところかな」 「わたし、B君のパパより社会的地位が高いわけないでしょう。女性だし・・・」 「それは昼間の表の儀式のこと。君のお役は裏の儀式をつかさどることだよ。 響子が自分の烏帽子を下のほうの頭に被せてお祝いをしてあげるんだ」 「エボシってコンドームのことを言っているの」 とぼけて私を挑発する妻。 「神主が被るカラスの頭ようなかたちをした黒い帽子のこと。君の烏帽子で大人の世界へ導いてあげるんだ」 「そんなものないわよ・・・」 「いいかい、B君はまっさらな筆。響子は墨壷。お祝いの意味もこめて童貞を守ってきたご褒美というか・・・、男を誕生させる母親になるんだよ」 黙っている妻に私は詩人高村光太郎の詩 『道程』 をパロって朗読しました。 『童貞』 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 母よ 僕を一人立ちさせた広大な母よ 僕から目を離さないで守る事をせよ 常に母の気魄(きはく)を僕に充たせよ この遠い童貞のため この遠い童貞のため お茶の師匠にはA 氏から妻に断られたと報告してもらうことと、B君の父親C氏の内諾を確認させてもらうことを条件に妻はA 氏の申し出を受けました。B君は中学に進学した時叔父のA 氏から女性に興味を持っても童貞は守れ、そうすれば卒業するまでに童貞を捨てるに相応しい女性を見つけてやるからと言われたそうです。 歌舞伎役者の息子が色気づく年頃になると、興味本位で近づいてくる女性たちの餌食になった面々のエピソードを交えながらです。 この話が決まると、「A さんだって、あのとき肝腎な所には手をお出しにならなかったよ」と、約束が果たされるまで妻を抱けなくなります。彼女は中高一貫のミッション系男子校に通学しているB君の聖母たらんとしているのです。同校と同じパリに本部を置くミッション系の女子大出身でカソリックの妻は血こそつながっていませんが、自分の息子のように思っているのです。 そしてこれは後日談ですが、B君は妻がどうしてそのような役を引き受ける気持ちになったかということ、 夫も理解していること、二人の娘があることなどをA 氏から聞かされていたといいます。 大安吉日の朝、妻の運転する車で二人は東京から二時間くらいかかるA氏の別荘に向かいます。途中で晩と翌朝の食材を買って、そこで水入らずの一日を共にしたのです。 帰宅したのは翌日の1時過ぎでした。 「早かったね。ご苦労さん・・・、昼メシは?」 普段と変わらぬ口調で訊くと 「おなかペコペコ」 テーブルのサンドイッチに目を見開きながらニッコリする妻。 「SAで食べてくればいいのに・・・」 ポットの紅茶を注ぎながら言ってやりました。 「彼、熟睡していたのよ・・・おこせないわ」 そのカップを引き寄せるとそう言うのです。 昨日まで私たちが“B君”と呼んでいた少年をさり気無く“彼”と呼ぶ妻の感性にハッとすると、二人に言いようもない嫉妬をした。 というのは“彼”とか“熟睡”という表現に、 「あなた、おつとめはちゃんとしましたからね」 という妻のメッセージを感じたのです。 「高速に入るまでは、携帯で何人も友達を呼び出して話をしていたのよ。声がしなくなったとおもったらもう眠っているの」 と笑う顔は母親の顔だ。 「君の隣で・・・」 「後ろでよ。鶏さんが啼いたらケジメをつけないとあなたに悪いし・・・」 と妻の顔で言う。「それで、君は眠たくなかったの」 「あなた、体は一人前のオトナなのよ。野球部でキャッチャーをやっていて肩幅もあって」 と語る妻はもうオンナの顔になっていて、「眠たくないわけ無いでしょう」 と無言で訴えているように見えました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ B君を六本木で降ろしたと聞いたので 「今頃、友達とメシでも食いながら君の様子を微に入り細に入り語っているよ」 とからかうと、「あなたは彼が車を降りると私の側に来てなんと言ったか知らないから、そんなことが言えるのよ」 と私を嗤うのです。 「・・・」 「『お母さん、このご恩は一生忘れません』 とウルウルになって言ってくれたのよ。彼の後ろを車が走り抜けて危険なのに・・・」 そういう妻の目も潤んでいて、わたしはしばし言葉がでませんでした。 「“お母さん”と呼ばせたの?・・・」 「そうじゃないわ。 アナタには悪いけど“響子さん”と呼んでもらったの」 「B君は?・・・」 「彼のことは“Bさん”よ。カラダはもうアナタより立派なオトナだし・・・」 私はここまで聞いて妻がカユイところに手が届くと言うか、至れり尽くせりの聖心聖意でB君のお役に立ったのだと確信しました。二人の娘のうちどちらかが男であったらとよくグチっていた妻はB君にオンナとしてではなく母親のような愛情で接したのだと思います。 「少し休ませてもらうわ。夜はどこかで食事しましょう」といって二階の寝室へ向かう妻。 「感想は・・・」 と言葉を投げかけると、階段の足音が止まり、「坊主頭がね・・・」という 声がして、重いゆっくりとした足音は、何かをかみ締めているように消えていきました。
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