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ページ番号1350番
★ 腕時計 ★ アジサイ (横浜市) 2026-06-09
日曜日の朝、「わたしの時計を知りませんか」という妻の声で目が覚めた。「時計のウオッチャーではないからね」と応えると、「おかしいわねぇ・・・ どこに置いたんだろう・・・」と寝室のカーテンを引くとアジサイのターコイズブルーがガラスを染めている。外は雨らしい。「明子はでかけましたよ。ミサに出るのでお願いしますね」と言い残して寝室を出た。しばらくしてセルを始動する音がして見つけたのかとほっとして。それは母親にもらった、小さな黒革の腕時計で、妻のお守りのようなものなのです。
ほっとしたのはこの腕時計に思い出があるからです。それは私の要請で妻が初めて私以外の男性に、抱かれる日のことでした。相手は取引先の部長で重役候補。私の提案に「一度だけよ!」と素直に応じたのは、部長の経歴を売り込んだ自分の営業力だと思っていたら、彼女はこういうのです。「それは部長さんが、写真とはいえ、私の全身を見て、私のすべてが欲しいと 私の夫たる貴方に求めた事実よ」と。部長45歳、妻35歳。ひと昔も前の話なので、まだらになった記憶を繋ぎ合わせながらお話します。 彼女が承諾してから数日、私は男というものについて色々な話をしました。部長に思わぬ失礼があってはいけませんからね。ある晩、「そんなことありなんですかぁ~」と私にしがみついてくるのです。「部長が初対面の君にそんなことしないよ」となだめても「でも怖いわぁ~、あなた見守ってくださいね」と真剣な眼差しでいうので「わかった君の守護聖人になるけど、君も”叩けよさらば開かれん”、”求めよさらば与えられん”の気持ちでね」と妻を抱きしめたのです。 当日、ホテルのラウンジで部長と妻は顔を合わせ、私は二人の略歴とここまでに至る経緯、とくに「守護聖人」と「一度だけよ」という妻の言い分も冗談を交えて紹介した。座が和んだのを機にルームキイに手をのばすと「では奥さん、そろそろ参りましょうか」と妻を促す部長。「あなたも来るんでしょう?」という顔つきで、ワタシに一瞥を送る妻。 アクリルのドアを引いてレディファーストの形をつくる部長。肩越しにワタシを見てる妻。ワタシは手をふりエールを送る。 先ほどの和やかな談笑のなかで、私が夫や介添え人としてではなく、オブザーバーもしくはレフリーとして二人の成り行きを見守ることになったのです。 でも、初対面と言え二人だけの話もあるだろうし、越えなければならない一線もあるずだから、コヒー一杯分の時間をおいてから扉をノックした。顔を出した部長は「今、奥さん、シャワーを浴びてるからあと15分くらい待ってよ」と云います。舞台は見せても舞台裏は見せないぞみたいな上から目線で・・・。ガウンの襟元からのぞく胸毛が厚い胸板をより厚く見せている。三人揃って入室することになっていたのに、コヒー一杯分の思いやりがあだになったのです。今思い返せば、部長は夫以外の異性を初めて受け入れようとしている妻にイニシエィション(通過儀礼・儀式)を与えたかったのかもしれません。彼女がクリスチャンだということは知っていますから。 15分後、ドアの前に立ちノブをゆっくり回し押し込むと、衣擦れの音と妻のすすり泣くような訴えるような声が漏れてきます。一瞬その場に立ち尽くしてしまい、通路に人がいないのを確認してから部屋に入ります。ここから姿は視認できないけど、部長の猫撫で声に、許しを請うような哀願調で応えている妻。15分前にシャワーを浴びていた彼女がもうこのように喘いでいる。しばらくして喘ぎがくぐもった声に変ったのです。壁際からのぞくと、妻は一糸まとわぬ姿でした。部屋の照明は大きなフロアーランプの灯りだけ。そのシェードを通した柔らかい光が妻の横顔を映し出しています。揺れる眼差し。揺れる髪。 上掛けは下におちてダブルベッドは小さな舞台のようだ。いや大きなキャンバスのようにも見える。キャンバスならどんな絵を見せてくれるのだろう。妻に振りをつけているのは部長だ。「芸者ワルツ」の「あなたのリードで島田も揺れる」という歌詞が思い出されるのです。ベッドの近くにフロアーランプを配したライティングもみごとでした。私がいる場所を含め部屋全体は暗いのに、その淡い光をベッドのシーツがうけて天井に返している。舞台の様子がつかめたので舞台裏の椅子に戻り、二人の睦言と醸し出す音に耳をすまして、その姿態を想像するのです。 それは行為中に「ねぇ~、ねぇ~、奥さん」と自分の体の律動に合わせた猫撫声の呼びかけではじまり、「ご主人に内緒で、ほんとうに愛していいですか」との問いかけで終わるのです。妻の反応がないと、一段調子を上げて「奥さん本当にいいですね!本当ですよ!奥さん・・・」と念を押す部長。その部長に「いいわぁ~、いいわぁ~」と涙声で応えている妻。漏れてくる音と声から状況を想像すると、部長は手の内にいれた妻を見下ろしているようです。頂きに導かれていく妻の反応を見て、「ご主人に来てもらいましょう」と提案すると「部長さん、お願いだからそれだけは許してぇ・・・ね、お願い」と哀願するような甘えた声が聞こえてきます。おいおい、最後まで私を見守ってね、といったのは君だろうにと唖然とする私。 二人の様子が気になってベッドの方に目をやると、部長の巨体に組み敷かれた妻がいて、その一部を受け入れているのです。「どう、感じる?」との問いに「ええ、素敵よ」と応じながら、両手を部長のうなじに置くと動きはとまり、二人は見つめあっています。その静寂が破れて動きだしたのは「ねぇ~、奥さん」というあの呼び掛けからでした。そして「さっき奥さんのお願いを受け入れてあげたのだから、今度はぼくのを聞いてもらえますか?」と続きます。部長の律動をうけとめているからでしょうか、妻はこころなしか声をふるわせ「わたしにできることなら・・・」と答えます。 結果、彼に「部長さん、もう一度お逢いしたいわぁー」と言うことになり、実行すると「奥さん、逢ってどうするの?・・・」と突っ込み、言いよどんでいる妻の耳元に口を寄せると腰のリズムに合わせ、一語一語を区切って、ささやいているのです。部長が顔を上げると、いやいやをするしぐさで気持ちを伝えている妻でしたが、許してもらえず、その一語一語を唇の形で伝えたようです。部長はそんな彼女の一連の振る舞いや身のこなしを目の当たりにして、妻への愛おしさが一気にこみあげてきたのでしょうか、動きを加速させると「奥さん、いいですね、本当にいきますよー」と感極まった声を発して数秒後に、妻に身を委ねたのです。 そのとき、白いシーツに投げ出された腕にあの腕時計が装着されていることに気が付いたのです。体位が変わったから見えたのでしょうか。いづれにしても、手首に腕時計を装った腕が”なまなましい”というか”そそる”というか”艶やかで色っぽい”というか、名状しがたいムードを醸し出しているのです。そして妻はそれを部長の背に添えると、労をねぎらうように部長を抱きしめるのです。わたしはふたりの余韻が覚めぬうちに部屋を後にしたのです。 ロビーで軽食をとっていても、何か忘れ物を置いてきたような気がして、気持ちが落ち着かないのです。なぜ妻は腕に時計をしたまま抱かれたのだろうか。いや、シャワーを浴びたはずだから外したものを再度付けて? 部長に言われたから? では部長はどうしてそんなことを? 或いは守護聖人役がなかなか現れないので心配になって、お守りの時計を付けた? ちなみに就寝(ベットイン)に際して彼女は必ず外すのです。 結婚祝いに母親からもらった腕時計。「私と思って大切にしてね。レンズは私の眼よ」といって渡されたあの腕時計。彼女は今日まであの日の出来事を具体的にに話したことはない。たとえばこうだ。部長が帰ったあと「何か恥ずかしいことを言わされた?」と訊ねると、よく聞いてくれましたという表情で「ええ、あなた、大変だったのよー」と答えて、「例えば?」と踏み込めば「それは私と部長さんの秘密よ」とかわすのです。 けど一度だけ例外がありました。その一年後、取締役になって海外に赴任する部長を成田空港で見送ったあと、あのホテルの妻にとって思い出の部屋に泊まった時でした。彼女はシャワーを使っていると、入ってきた部長に膝頭をギューと掴まれて立っていられなくなったというのです。「それで?・・・」と先を促すと「あなたに教えられたように流れに身をまかせたわ」と。それ以上訊くと野暮になるのでやめたが、膝に部長の秘技を受けて、彼の作り出す流れに身をまかせている妻を想像したのです。 そして思ったのです。一年前「今、奥さん、シャワーを浴びてるからあと15分く らい待ってよ」と、私の入室を拒んだバスローブ姿の部長は、シャワー室で妻に何かイニシエィションを与えた後だったのかもしれないと。そうであれば、妻が黒革の腕時計以外は何もつけずに抱かれていたことを理解できるのです。イニシエィション? シャワー室で立っていられなくて、両膝を崩して横すわりしいる妻の背に胸を密着せて、耳元でささやくのです。 「奥さんはぼくのお初です。かけがいのないお初です。だから着衣の上からこの手触りも覚えていたいのです。お願いします」と、彼女の乳房を手ですくいとるようにして、その重みと感触に目を細めているのです。そこにドアをノックする音がして、濡場に水をさされたというか、流れを止められたというか、舞台裏の仕込みを中断せざるを得なかったのでしょう。だからノックした私に「あと15分くらい待ってよ」と不機嫌な顔で言ったのでしょうか。わたしの想像ですが。 いづれにしても、部長の意を汲んだ彼女は、身なりを整えるとベッドに両膝を崩し、横座りになって彼を待っていたはず。部長は近くに腰を下ろし、妻を抱き寄せ、ワンピースの上から、柔肌の感触を確かめていたのでしょう。あつい吐息を交えた睦言を囁かれながら、部長の流儀に身を任せて脱がされていく妻。だが彼はなぜか妻の腕時計は外さなかった。黒革の小さな時計をつけた彼女の裸身がなやましかったのでしょう。 そんな想像をするのは、妻はみずから装いを解くとき先ず時計を外すからです。ましてやそれは母からの贈り物。つけたまま部長にアテンドするはずがないのです。部長にいわれてから15分後に扉を開けると漏れ聞こえてきた妻のすすり泣くような、哀願するような声は部長が彼女の願い許さなかったからでしょう。当日から一年後にシャワールームでの出来事を知って、なぜ妻が時計を付けたまま抱かれたか理解できたのです。 私が小一時間くらいして部屋にもどると、二人は身繕いをすませて窓辺のテーブルセットにいます。 部長は立ち上り「奥さんは、立派にオツトメを果たされましたよ」と声をかけます。「けな気に振る舞われたましたから。後でほめてあげてください。では・・・」とドアの方へ。そしてドアの前で振り返ると見送りに来た妻を抱き寄せキスをするのです。二人の動きがあまりにもスムースだったので衝撃をうけ、妬ましくさえおもえたのです。 ですが窓辺の椅子に座って、中肉中背の妻の後ろ姿を見ているとその衝撃が「いい絵だなぁ」みたいな感動に変ってくるのです。その感動は長いキスシーンに「二人はいい時間をもてたのだなぁ」といったよろこびが実感になって。それ以来、何か気の滅入ることがあると、あの日のことを想い出すのです。 古人曰く「終わりよければすべてよし」と。 おわり
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