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日記番号:1130

妻、洋子が捧げてくれた性と愛の記録

ボギー(大阪府 南部)


  感想集

3-3 私の真正包茎手術

私の事、
真正包茎とその手術

私には中学2年生から大学2回生迄の間に、人には話せない強いペニスに対するコンプレックスが有りました、
中学2年生頃から、異性の憧れやヌード雑誌を見て性的興奮を覚えた頃、皆さんは其の度に自慰をされて盛んにペニスを増長されたと思いますが、私はその時期はペニスが真性包茎で有った為、興奮するとペニスの先を覆っていた皮が先に飛び出し、激しい激痛を伴なっていました、其の度に何度も勃起するペニスが5㎜程の尿道包皮をめくり上げ激痛が伴なったのです、其の頃クラスの男子生徒はヌード雑誌やエロ雑誌を廻し自宅で盛んに自慰をし仮性包茎の鬼頭をむき出して盛んにペニスの長さや大きさを競い合っていましたが、私はその包皮が反転出来ない皮被りの小さなペニスを見せ合う事も出来ず又、ペニスの成長がいかに女性にもてる事など知る由も無く、包茎ペニスがとても恥ずかしくて真剣に相談出来る友も無く、それでも馬鹿にされる事を避け、剥けても無いのに適当に友人との会話を合わせながら辛い少年時代を過ごしました、そしてその痛さ忘れる為に、エロ雑誌やヌードグラビアは其の頃から一切見る事が無く、自宅に有った父のギターを持ち出し、2年生の夏休み頃からギターを覚え始めたのです、その当時はギターコードを覚えながら楽譜を参考にしていましたが高校2年生の冬休みの頃からは耳にする曲は自然に左手の指が不思議とその曲の音階を押さえ充て勝手に弦を抑える事も出来たのです、其の頃は盛んにフオークソングやエレキギターが流行りでしたが、偶々市内に雑居ビルを父が所有していてその一階でレコード専門の小さなジャズ喫茶を経営してたのです、その店は父の趣味と道楽で始めたそうですがそれを母は一人で仕切り、私は友人との会話が嫌で部活は一切せず母の店を手伝いながらまるで引きこもりの様に大量のレコードに囲まれてその殆どをジャズと過ごし特にジャズの中でもスイングでは無く静かなギターとのセッションジャズを聞きながら独学でセッションのアレンジを聞き、覚え夢中になった事で、異性との性に対する思春期でのペニスの成長の勃起を抑えて来ました、それは両親にも打ち明けることが出来ない男としての辛い悩みでした。
そんな辛かった高校時代を大学進学の為の勉学の時間と、ギターを弾く事で打ち消し、自慰をする事も無く、過ごした為に一段とペニスの成長が止まった事は確かでした又、高校時代も当然同級生とのセックスの話題も避け、付き合い難いと後ろ指をされながら孤独の思青春を送り、そして希望の建築学科に合格しました、入学を終えようやく受験勉強から解放された安息の時に構内のキャンバス内の掲示板が目に入り、そこにジャズサークル・リードギター募集ーの張り紙を見て軽く応募した事が私の人生大きくを変えたのです、そのサークルでは総て2回生ばかりで1年先輩の浩二さんがバンドマスターで、テナーサックスを担当し、ドラム、ベースギター、リードギダー電子ピアノ、の編成でした、そこで何曲かテストされ軽く弾き合わせをすると見事に気に入られ私も仲間に加えて頂き、最初は20曲程のレパートリーから徐々に増やし、休日は市内のジャズクラブや夜のライブハウスで学生の素人演奏だと言われながらでもバイト代を僅かでしたが頂き、学生時代を満喫楽していたのです。
ジャズは他の楽曲と違い殆ど楽譜が無く、どの曲にするかは弾くかは軽く打ち合わせをした後バンマスがドラムに指示すると、静かに先行し、リードギターがドラムに合わすように曲を引っ張ります、するとそれぞれが適当にパートを合わせそれが合体した時に初めてジャズのリズミカルな曲となり、演奏者と一体となり、その後それぞれのパートの特異部分を自己満足の様に奏で、再び全員が合体しその時点で素人集団的なジャズが奏でられ優越感に浸れました、実際は3分程の楽曲でも客席からの盛大な拍手の時はその曲をアレンジしながら10分程の長さに伸ばすのが得意で3回生の頃は学業よりも演奏を優先し、その後おかげで一級建築設計士の免許は2回程落ち、在学は6年でした。 話は少し横道にそれましたが、

今夜はここ迄です、次回は8月1日土曜日の深夜に書き込む予定です、尚表紙の写真をその度に新しく入れますのでご期待下さい、
今夜の写真は洋子が28歳の頃の3Pの時のベビードールの写真です、この格好で男性と私との間に洋子が座りお酒を飲み酔った勢いで激しい交合を私に見せてくれたのです・・・

8月1日・・続きです
サークルに入り始めて友人として連帯感が生まれ半年が過ぎた頃、初めて一泊の温泉旅行誘われたのですが、私のペニスが包茎だった事で恥ずかしくかたくなに断りましたが結束が出来ないと散々説き伏せられ等々行くはめになりました、今から振り返ればその旅行が私のバラ色の人生の始まりでした、旅館に着くと直ぐに温泉に入る事になり、私は一緒に入る事を拒みましたが、全員で私を抱える様にして無理やり脱衣場に連れられましたが浴槽に全員で浸かる事は私は躊躇しました、ところが何故か他の5人は私を見てにやけながら先に浴室に浸かり、私は渋渋タオル腰に巻き浴室に入り、下半身を洗い浴槽に入りかけた時、パンマスの先輩の浩二さんは浴槽から立ち上がって私を手招いたのです、そして私がペニスを手で隠しながら浴槽を跨ぐと湯舟から仁王立ちにして遅れた私を迎えてくれました、驚いたのはその股間にダラリと大きく垂れさがったペニスでした、鬼頭迄がズル剥けで15㎝程の長さと4㎝程の太さの黒々としたペニスが堂々と股間から垂れ自慢したように見せつけた態度で立ち上がり私を抱き寄せると同時に私の股間の上に乗せた手を無理やり外したのです、私は慌てて再び手でペニスを隠しましたが、その手を意地悪く後の二人で外され私は惨めな気持ちで泣きそうになったのです、すると彼は私の顔をのぞき見つめ、「やっぱりなー俊君はホウーちゃんか・・だから演奏の後一緒に遊ばないんだなー・・・」と、他の4人のメンバーの前で言われたのです、あの時の恥ずかさは今でも忘れられません、
所が、その時全員に笑われると思った所、「大丈夫、今回の旅行は俊樹の事を思い、・・・」、と、・・・私がライブが終わった後、付き合いもしないで帰る事で多分セックスの経験が無い事を悟られてペニスの品定めの為の旅行を計画してくれたのでした、そしてと私に青春を楽しませようとペニスの品定めの旅行だったのです。
「俊君よーベースの中村もドラムの小池も前はホウちゃんで二人は俺の親戚の叔父さんで綺麗に手術してもらい貰い今はライブの後は剥けチンボで必ず楽しんでる・・だから俊君も早いうちに皮を切ればいいよ、俺が連れて行くから」と、言ってくれたのです、そして全員が私に包茎手術を促してくれたのです、

現在の私は、彼らと知り合ってなければこの素晴らしい性生活はあり得ませんでした、そしてその後卒業して何十年も経ってから再び彼らと合流した事で、天使の様な素晴らしい洋子と知り合う事が出来たのです、この覧で生意気にジャズ演奏の事などを書かせて頂きましたが、このサークルで知り合った友人らに包茎手術をさせて頂き、このメンバーの優しさで初めて女性の柔らかな熱い性器にペニス差し込み童貞を捨てさせて頂き、そしてこのメンバーと再会する為にライブハウスに向かう電車の中で今の洋子と知り合ったのです、私の素晴らしい人生はメンバーの皆さんお陰が今の私なのです。

話はそれましたが、その旅行の翌月浩二さんの親戚の叔父さんを訪ねたのです、叔父さんは神戸で泌尿科を長年開業されておられ、私は彼に引きずられるように嫌々門を通り、恥ずかしい未成長のペニスを縮ませながら包茎手術を受けたのです、そして2週間後に抜糸された後に、その先生から私のペニスの未熟さは小学6年生程度と知らされ、「俊君も真性包茎だったから成長が遅れてる、抜糸した一ケ月後から毎晩自慰をして刺激を与えればまだ大きくなるから心配いらない、25歳過ぎてたら成長は止まってたよ・・」 と言われ、その後1年間は毎晩手で擦り上げた所、手術前は長さ10㎝太さ2.5㎝のペニスがようやく鬼頭も露出して長さ12㎝、太さ3.5㎝程度になり、平均的に短小の部類ですが短くても今でも洋子も私を愚弄しながら満足し私もそれなりに悦んでいますただ例の錠剤のお世話になってますので硬さは衰えていません。

初めての女性経験
それは包茎手術が終わり、2回生の秋頃でした、夜の部のセッションが終わり酒の席でバンマスの浩二さんに女性とセックスをして見たい事を打ち明けた時、彼は打ち明けた事を歓び、メンバー全員からカンパしてくれて、彼も同伴しながら初めてソープランドで女性を験しました、「童貞だってね・フフフー」その時初めて見た女陰は相手を問てくれた綺麗な女性の顔付とはまるで違い私が想像していた真珠貝の様な物とは違い、逆にドドメ色をしたグロテスクなアワビの様な形の女性器を見て驚き、全身の毛が逆立った事と、それとは裏腹に初めて咥えて貰った気持ち良さにビンビンになったペニスは恥ずかしくもその口内で発射しそして二度目はそのアワビの中に初めて入ったのです、女性器の膣内のヌメヌメした柔らかな皮肉に包まれ、10回も擦らない間に2度目の射精、その女性はその後私に3回目をさせてくれたのですが、それも10回程擦った後にすぐ射精してしまいましたがその素晴らしい女陰のヌメリの中での初めての経験は感動と共に新たに早漏の不安がそれから沸き上がって来たのです、
それを先輩の浩二さんに報告した時、彼は、自慰をする時は手で強く握り早く動かし射精を感じたら尻の穴を窄めて何度も何度も射精を止めそのコントロールが出来る様に、とその技を教えてくれました、私はその夜から毎晩のように自慰をしながら射精のタイミングを抑えるように努力したのです、

その後はライブのコンパで交流した女学生らと卒業するまで10人程度、毎週必ずセックスし、射精のコントロールもその都度出来、女陰の中での出し入れを十分に楽しむ事も出来ましたが、特定の女性との付き合いはしなかったのです、相手の女子学生も遊びと割り切り先輩から必ずコンドームを装着するように言われていて、そのアドバイスで女性との妊娠騒ぎは一切なく、ただセックスだけの遊びに過ぎなかった日々だったのです、その理由はジャズサークルの演奏に特定の女性が来ると目立つから付き合わないようにとの事で私は、彼の言いつけに素直に従った結果、総ては現在の境遇になりました、それはサークルで知り合った遊び人のバンマスの浩二さんのお陰でした。

大学を卒業する頃、国内ツアーのジャズバンドに誘われましたが、其の頃クラブやライブの演奏は僅かな金員での収入で音楽では生活出来ないと断り、実家が祖父の代から不動産業で、郊外に賃貸住宅を手広く手掛け、新地に雑居ビル2棟と賃貸マンションを1棟持ち、母はそのビルの中でジャズ喫茶店を経営していて、私は幼少期から割と楽な生活をしていた為に、卒業後は父の仕事を手伝う積りでした、が、ささいな事で父と口論になり、卒業後は大手のゼネコン会社の設計部門に就職し、そこで8年間、明けても暮れてもビルの階段設計を担当し、そして学び、32歳でその会社の下請けの設計監修会社として大阪で父の持ちビルの階上に事務所を構えました、
其の頃はバブル景気の真っただ中で2名の助手社員を使い深夜まで働き通しで、細かな建築や改修工事等の小さな仕事を快く引き受けそのせいか絶え間なく依頼が続き、小さな公共工事の孫請けビル建築迄、親会社を飛び越え依頼され、社員も増やし更に3名程増やし順調に対応していたのですが、どうしても帳簿整理の部分だけが足りず、当時知り合いの紹介を得て大学2年生の商学部の女子学生をアルバイト的にお願いしたのです、
所がその彼女が原因で私の人生が大きく変わりました、それは彼女がバイト来てくれた事で事務所の経費等の帳面がそれ迄総てドンブリ勘定的で、毎年税務申告等で苦労していた事務労務費や貸借表、損益決算表等の会計士的な部分までをその彼女は難なくこなしてくれた事に私も大助かりで驚、感謝の意味も含めて半年後位経った頃、彼女をお礼の意味を込めて始めて飲食に誘いその後馴染みのライブハウスに連れて行ったのですが、初めて知った大人の生のライブ演奏に彼女は感動したと同時に女性の股間迄も酔わせてしまったのです、カクテルを何度もお替りするとすっかり酔い、「・・今夜は帰りたくないー抱いてー・」 と、・その誘いに私は彼女に「経験してるのかー・?」と、聞くと、 「 勿論・・」と酔った様な赤い頬と濡れた大きな瞳を輝かして 」 と答えたのです、たのです「遊びだよ・・」と私に言うと、私の肩に持たれかかり手をズボンの上から下腹部を抑えて来たのです、そして社内での景色を変えてはいけないと思いながらも、彼女の甘える様子に負けそのままラブホに入ったのです、浴室で少女のようなピチピチした彼女を洗いそして股間も指とソープで愛撫しベットに乗せるまるでマグロ状態の彼女の股間を舐め、大きく開けた股間の縦割れのヒダをビローっとめくるとピンク色の肉ヒダが泡を吹いていました、男性経験は沢山有ります、と聞いていたのですがその肉ヒダはこんもりとしていて未だ幼そうなその間に鬼頭を宛がい挿入しょうとした瞬間・・・「おかしいー硬いー・・もしかしたらー・入れてはだめだー・・・」と思いましたが、いまさら裸体で股間を広げている彼女に鬼頭の先を押し込むのを止める事は出来ないと思い、そのまま狭い膣内に腰を押し込む様にペニスをググーっと無理やり押し込んだのです・・・・「ウアァァァーアァァー・・」鬼頭が入口を通り過ぎ総てズボーっと押し込んだと同時に両脚を押し当ててくたのです、お分かりでしょうが、彼女は純粋の処女でした、しかしさほど痛がる様子もなく、その時鬼頭を押し込むのをためらう私に彼女は私のお尻を抱きかかえ自分からグイーっと腰を押し付けて処女膜を破棄したのです、
私は最初からゴム射精でしたが、その後はシーツに鮮血が垂れていたのには驚き、彼女に問うと、会社にバイトに来てから直ぐに、処女を捨てるなら私に・と決めていたそうでした、その女性は私の取引先の紹介の大切な一人娘で有った事も承知していましたが、社内の雰囲気や日頃の服装や言語で相当遊びなれている女子大学生だと思いました、が、それは見事に外れ、その日から毎週末秘密の様なデイトを強要されそして体を重ね、段々と深い関係になり、一年が過ぎた頃は、大学生のアルバイトの女性が社員に経費の使用を注意したりする事が度々重なり、社内でも私の立場がないような状況になってた時、彼女はその夜も、「今夜はゴムは要らないわー中に出しても安全なの・・」と、昼間に私の設計キャドにメモを置いて私を誘って来たのです、
其の頃は彼女の規則正しい生理日も知っていて、私もその月だけが少し早いとは気ずいていましたが、彼女の言葉を信頼し、その晩はそのまま彼女の膣内に精液を射精しました、しかし、生だしは彼女と初めてセックスをして二ケ月目頃から直接射精していたのですが、其の頃は女性の生理と排卵の危険日を熟知していましたが、後から考えると変だと気ずいて当然でした、

それは彼女が3回生の終わりで、 「将来を考え、私との付き合いで妻に・・」と言う事を思慮していたのではないか・? と、思っても不思議ではありませんでした、そしてそれからも毎週のように求めあい、三ケ月がたった或る晩、何時もの様にホテルで交合した後、彼女に妊娠した事を告げられ驚きました、当然です、年の差は私と12歳違い相手はまだ学生でおまけに紹介者は仕事先の社長で有り、家庭では公務員の厳格に育てられた婿取りの一人娘でした、 

それからは、・・・私には他に3人の女性と付き合ってる遊び人で有る事で一定の家庭に落ち着く事は出来ない、長男だから婿にも行けない事・・・・を、打ち明け、知り合いの婦人科で既に三ケ月半ばの胎児を中絶させたのです、その時程彼女が可愛そうに思った事は有りませんでした、二度と生射精はしない・・・と、心に誓い、彼女が大学を卒業するまでは優しく付き合いし、そして頃合いを見て知り合いの設計事務所に勤めていた25歳の男性を紹介し、宛がい、二人は恋に落ちやがてその一年後に念願の婿養子となり、彼女とのと事は落ち着きました、その後彼女は結婚しても私との関係をニ年程続けて来たのです、私は断っていましたが、「付き合わなければ私の子供を妊娠した経緯や処女を奪った事などを社内の社員に打ち明けると」・・脅され、その関係を続けましたが、其のうち彼女はその男性の子供を身ごもり自然に別れる方に落ち着きましたが、あれから20年の月日が経っても偶に彼女の誘いに応じて逢引きを断る事が出来ませんでした、
その妊娠をさせた事で会社の仕事にも遅れを生じ大手の取引先から信頼がなくなる事を恐れ、彼女が婚姻し妊娠し出産したと同時期に私が包茎手術をして戴いた神戸の泌尿器科の先生を訪ね、避妊のパイプカットをして欲しいと頼みました、すると先生に激しく叱られ、「日本の法律の基で健全な男性が理由もない避妊手術は出来ない」と、叱咤されたのです、又避妊手術をする事で安心して女性との性交を楽しむ事が出来ると散々怒られて帰りましたが、私はそれでも決意が固く色々とパイプカットの手術の件を調べた結果、アジアの近い国で簡単に安価で出来る事を知り、その翌月には飛行機に乗り、その手術をしたのです、

パイプカットの手術とその後・
本来、人間の皮膚をメスで切る場合、局部麻酔を注射すれば簡単な事ですが、睾丸の皮膚にメスが入り、その中の精子管をピンセットでつまみ引き上げる時の激痛は、友人と大きな浴室につかり背中をタオルで拭いてリラックスしている時、背後から睾丸に指パッチンを食らったような激しい激痛が起こります、手術中はそれに耐えなくてはなりません、その後はもう一方の睾丸も有る為にその激痛の恐怖を予測し両足がガタガタと震える間、約20分で無事終わりましたが、私自身は1時間程経過してたと感じる程その手術の痛さに耐えました、本来は精子管を縛るだけですが、私の年齢も若かった事で自然に癒着するらしく、精子管を切り左右を結ぶという事で苦痛でした、
その後2週間後に再び飛行機に乗り、抜糸し、3日程滞在してホテルで自慰で精液を射精してから再度翌日に自慰のゴム射精を顕微鏡でみて貰い、精子の有無を調べ完全に精子が無い事で、そのPC手術は総て終わりました、その後は女性と交合し精液は普段よりも薄く妊娠の心配は有りませんでしたが一度射精すると直ぐにペニスが勃起し、勃起したペニスを収めるには続いて射精しなければ収まらない事に気づき体力も消耗しますが、女性とホテル泊をするとその夜散々出したにも係わらず、その翌朝に再び強い勃起が起こり、要は一晩に3回は射精することになり仕事中でも、頭を使っているにも関わらず直ぐに勃起して来ました、その原因を調べた処、パイプカット手術は3000年の歴史が有り、沢山の女性を抱える王族が年を取り、勃起しなくなった所で睾丸の精子管を断つ事で再び勃起力が蘇り女性を愛する事が出来るという内容で、それには驚いたのです、
その後は夜のクラブの女性と3日に一度は泊りで交合する日々が続きましたが、それを繰り返している内に、なんとなく贅沢な悩みで、そのセックスにも飽きがきていた有る夜、大人のオモチャの店でホームトークや、オレンジピープル等のスワップ雑誌を手に取り、私が求めていたのはこれだと思い早速付き合ってたクラブの女性を伴ない、金銭的な愛の無い女性らと何度もそのスワッピングに通い相手を交換してのセックスを月に一度の8年ほどしていましたが、愛の無い同伴女性が相手の男性に押し込まれ絶頂している場面を見ながら、相手の女性の中でゴム射精した後に、不思議にも最初に見たその雑誌での興奮もやがて冷めていき、相手の女性の股間の匂いも気になりだし冷めていた時期でも有りました、所が私が46歳の頃に初めて出会った洋子と知り合い、セックス以外の付き合いで一時的に彼女に手を差し伸べて、出会いから三ケ月が経過した頃に彼女の強い要望で彼女を抱く事になり、その彼女の性体験と彼女の両親の秘密の性行為を彼女の口から語られた時、それこそが私が求めていた私自身の性癖のオアシスと知り震える様なその内容に驚き私は洋子の虜になったのです。

本日の写真の黒スケスケベビードール姿は、HTで募集した単独男性2名を連続で4回も迎えてくた時の姿です、連続4時間にも及ぶ激熱な交合の最後に、二人の男性の大きな物がが吐き出したばかりの汚れ切った肉壺に私を快く迎え入れてくれたのです、洋子が28歳の時でした・・

8月1日深夜・・・では今夜はこれ迄です・・・ボギーより


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