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日記番号:844

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幸治(都内)


  感想集

9章【他人の性】-1

陽子と結婚して10年、その間に陽子の不妊症の事もあったが、それを除けば私たちは夫婦として平穏な日々を過ごして来たと思う。
しかし、9月の温泉旅館での出来事や11月末に小野氏と出会ったことは私たち夫婦の性生活に大きな波紋を投げかけた。
私たちが初めて結ばれたのは陽子が19才、私が23才の春だった。
私たちが出会ったのが15才と19才と最も異性に興味を持つ年齢だったし、しかも毎週3回は陽子の部屋で会っていた。その状況を考えると今の時代としては遅いと思われるだろう。
確かに私は東京の国立大学入試に向かって時間を惜しんで勉強していたし、親しい女友達もいなかった。地方の共学高校でも異性交際はあったし、近くにラブホテルは無くても、どちらかの実家の部屋で初体験を済ました同級生がいたことは知っている。
私も肉体的健康な男子なので平均的に性への関心は大いにあったし、自慰も中学2年生の時に覚えた。悪友からは女性のグラビア写真が載った週刊誌を借りて夢中で見ていた。その中には全裸の写真もあり、それを見ながら自慰行為をした。
初めて陽子の部屋に案内された時、(これが女子の部屋か?)と全てが物珍しく落ち着かなくキョロキョロと部屋中を見回していた。
部屋は6畳ほどの洋間で壁は白でタンスや本箱も白に統一されていた、タンスの上には豪華な西洋のアンテーク人形が飾ってあった。反対側にはピンク色カバーで覆われたベッドがあり、その上には大きな白い熊の縫いぐるみが置かれていた。
若い女子のベッドを見た時は何となく眩しく気恥ずかしく感じた。しかも、すぐ隣にはこのベッドを使う清楚な少女がいた。
陽子の部屋は数年前に家を建て替える時までそのままの状態で残っていたのでよく憶えているが、その部屋で最初に何を話したのかまったく記憶に無い。
出会いから結婚するまでの約8年間、その部屋には私たちの青春の全てが詰まっていた。そして、タンスの上のアンテーク人形や白熊の縫いぐるみは、陽子が子供から大人の女に成長していく姿を、北野幸治という新たな人間が家庭教師として部屋に来た日の事も見ていた。やがて、その男が陽子の恋人になり、そして夫婦になっていく過程を見守ってくれた。
初めて手を握り合った日から3年後の桜が満開になった日、私たちはその部屋の小さなベッドで結ばれた。陽子は大学1年生、私は社会人一年生だった。
それから結婚までの4年間、あのベッドは2人の濃密な時間を過ごす重要な役割を果たしてくれた。小さなシングルベッドだったが二人の愛を育むには十分に広かった。
あの日から数えると既に14年間もセックスをして来たことになる。そして、2人の間には誰の介在も無かった。つまり、私たちの性は数刷のハウツー本で学び試行錯誤を繰り返して今日に至った。
若い頃はただ夢中で本能の導くままにお互いの身体を求め合った。
当時は前戯も程々で挿入行為を繰り返した。私の精嚢が枯れるまでひたすらセックスをした。そこにはテクニックで相手を悦ばせる余裕は無かった。
陽子が初めて軽いオルガを経験した日は意外遅く結婚してから2ヶ月経ってからだった。それまでも時々セックスをしていたが、妊娠と言うプレッシャーが常に意識下にあったからだと思う。
結婚して避妊の制約が解かれて初めてセックスを楽しむ余裕が出来て、それがオルガに導いたのだろう。結婚後は2人の愛情確認よりも義務的な種付け作業を数年間続けることになる。しかし、それが無駄な努力と分かった時、大きな挫折感を体験する。
不妊症の精神的苦痛から立ち直ったが、夫婦生活は以前のような熱情も目的も無い、ただ夫婦だから義務としての営みを続けていたのではないだろうか?
しかし、それは私たち夫婦だけだろうか?
例え子供がいる夫婦でも同じように惰性で夫婦の営みを続けているかもしれない。
私たちは子供を諦めた頃から営みの回数は徐々に少なくなったことは否定できない。
そんな倦怠期と言われる時期にあの温泉旅館で過激なセックスを趣味とするカップルと出会ったのだ。

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