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日記番号:844

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幸治(都内)


  感想集

8章-5

小野氏の話を聞いていると、今まで自分が異常と思っていたことが、それほど珍しい事でないと云うことに気が付く。
「驚きましたか?何度も同じ事を言うようで失礼ですが、道徳や倫理はその時代によって考え方が大きく変わるんです。特に性に対する価値観はかなりのスピードで変化していくんですよ。当然、男女関係も夫婦関係も同じように変わって行きます」
「そうなんですねぇ・・・、今日は、と言うより小野さんに出会って本当に勉強になりました」
私は率直に頭を下げた。
「いいえ、初めてお話をした方に失礼な事ばかり申してすいませんでした」
小野氏もそう返したので、そろそろ帰ろうと思った。しかし、小野氏は座ったままで、まだ話をしたそうな様子だった。
「北野さん、もう少し先ほどのお話をお聞きしたいんですけど、よろしいですか?」
少し体を前のめりにして声のトーンを下げて言う。
私も何事かなと思い、同じ姿勢をして「はぁ、どんなことでしょう?」と答える。
「大変、不躾な事をお聞きしますけど、先ほどの旅館で隣の男女の声を聞いた時、北野さんは興奮しましたか?男として、ですけど・・・」
その質問は確かに不躾ではあるが、このような性的に秘密めいた体験談を聞かれると、学生時代の親しい男同士の飲み会を思い出す。初めは小難しい哲学的な話題で始まるがやがて夜が更けると猥談で盛り上がる。小野氏から話題をふられるとあまり躊躇することなく素直に答えた。
「ええ、それはもう・・・」
しかし、次の質問に私は驚き、慌て、答えの言葉が口の中で詰まった。
「奥様のその声を聞いたんですよね?奥様の反応はいかがでした?」
小野氏のその時も視線は私の心の中を透視するような鋭さを感じた。
「はぁ・・・、妻も・・・、顔を赤くして・・・、膝が震えていました・・・」
その質問はまったく予想外だったので、動揺してしまった。その会話から余裕を失った私は完全に彼のペースに呑み込まれて行く。
小野氏は私が答えると、わずかに微笑んだ。その後生臭い質問が立て続けに出された。
「そうですか、いやぁ、そうでしょうねぇ、それが普通ですよ。失礼のついでにもう少し立ち入った話をお聞きしたいんですけど、北野さんは奥様以外との女性経験は?」
「はぁ、妻だけですが・・・」
私が答えると、小野氏は空かさず、「大変失礼なのですか、奥様の過去の男性体験ついてはどうでしょうか?」と、たたみ掛けてきた。
どんな親しい友人でも妻の異性関係については普通話題にすることはほとんど無いだろう。しかし、小野氏は私が考える隙を与えようとしないで、素早く質問を繰り出した。この時、私は小野氏のマインドコントロールに乗せられたかもしれない。普通では口に出さない事柄にあまり躊躇わずに答えた。
「はい、妻も私以外に男性関係はありません。その事は自信を持って言えます」
私は小野氏の口調に合わせるようなスピードでかなりはっきりと答えた。
「そうですか。つまり処女と童貞でご結婚されたと言うことですね?」
「正確には結婚前にしましたけど・・・」
私もバカ正直に答える。
「そうですか、失礼な事をお聞きして申し訳ございませんでした」
小野氏は私の答えに満足そうに何度も肯いた後、深々と頭を下げた。
私と小野氏はどちらともなく手を差し伸べて握り合い、視線を交えて別れた。
『運命的出遭い』とはこう云う事なのだろうか?

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