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日記番号:892

愛する妻を堕した男

志保の夫(首都圏)


  感想集

33.母の約束

途中で花屋により全て志保が選んだ。
あまり匂いがきつく色も柔らかい花を選んだ。紅白のカーネーションと母の好きなグラジオラスは記憶にあるがあとは憶えていない。たぶん志保は憶えていると思うが。
病院の駐車場に着いた頃、志保は緊張で無口になっていた。
昨日、駅前のスーパーで買った濃紺の膝丈のプリーツスカートと白のブラウス、スカートに合わせたカーデガンは明るい太陽の下では意外と映えた。
病院の玄関を入ってエレベータで入院階まで行く。基本的に病室には入らないで、詰所でカードを書いて助手さんに渡すと面会室に案内してくれる。そこで待っていると母が点滴瓶を下げて面会室に入って来た。母は病院の用意した患者衣ではなく、持参した浴衣を着てその上に羽織を着ていた。
「省吾の母です。省吾がいつもお世話になってありがとうございます」
母は優しい目で志保に挨拶した。形通りの挨拶だが声は優しく穏やかだった。
「中川志保です。初めまして・・・浅井先輩にはいつもお世話になっています。突然、お見舞いに伺ってすいません」と言って、花束を差し出した。かなり緊張していた。
それから、母は志保に旅行の事を聞き、志保は北海道の雄大さに感動したことなど話した。
少し間が空いた時、母が私に<売店で何か飲物とお菓子を買ってくるように>と、言いつけた。
それは、母が志保に何か話したいことがあるのだろうと察しはついたので、往復しても数分しかかからない買い物だが、ゆっくり時間を取った。
戻って来ると、志保がハンカチで涙を拭っていた。母も手にハンカチを握っていた。
何を話し合っていたのか分らないが、二人の様子から母娘のような和やかな雰囲気を感じた。
「志保さんって、お若いのにとてもよく気が付くお嬢さんね。きっとご家庭やご両親が立派な方だと判りますよ。それに心が優しくて、省吾には勿体ないくらい。省吾、志保さんを大切にしなくちゃだめよ。きっと貴男の人生でとっても大切な人になるかもしれなから・・・。志保さんの前で母に約束してくださいね。『志保さんを一生幸せにする』って、これは母からのお願いよ。志保さん、もしかしたら、もうお会いできないかもしれないけど、省吾が母と交わした約束は貴女も覚えておいてくださいね」
この後も何か話したが、この言葉以外はあまり憶えていない。
母とはエレベータの前で別れ、私たちは病院を出た。
それから、実家に向かった。実家に行ったのは志保が旅行着に着替えたいと言ったからだ。
車の中で私は母が志保に言った言葉を聞きたかった。
「素敵で素晴らしいお母さまだわ。私、お母さまとお会いできてとても嬉しかったし、感動したわ」
「僕が戻った時、キミは泣いていたよね。母に何か言われたの?」
「そうよ。お母さまのお話を聞いて感動して・・・」
「何て言われたの?」
「『幸せになりなさい!』って、『女は自分が幸せになるためなら、何をしてもいいのよ。貴女が幸せになればあの子も幸せになれるから』って、『あの子を幸せしようと思わないで、貴女が幸せになることを考えなさい』、それから『もし、あの子が貴女の幸せを邪魔すると思ったら、躊躇しないで別れていいのよ。決して同情で関係を続けたりしないでね』ともおっしゃったわ。普通のお母さまだったら、『あの子を幸せにしてください』と言うけど、貴男のお母さまは決してそのような事をおっしゃらなかった。それを聞いていて私感激してしまったの。何て素敵なお母さまだろうと、思って・・・」
私も初めて聞く母の言葉だった。母がそのような事を考えて父と結婚して、私たち姉弟を育てて来たと思うと、これまでの色々な事が甦った。
私が元彼女と別れた時、母は『神様はお前にもっと幸せになる機会を与えたかもしれないよ』と、言ったことを思い出した。志保に言った言葉と重ね合わせると、志保との出会いが幸せへの出発点と思った。
「その他、何か言われた?」
「うん、でも・・・、それはお母さまと私の約束だから・・・」
志保はそれ以上話さなかった。
「お母さまともっといっぱい話したかったわ。でも、これから何度もお会い出来るもんね。今度お会いしたら何を教えてもらおうかなぁ」
「そうだね。これからずっと会う機会があるからね」
しかし、志保が母に会ったのはこれが最初で最後だった。
母はこの半年後の寒い日に死んだ。48才だった。母はその事を予感していたかもしれない。だから初対面の志保に自分の思いを話したのかもしれない。
志保は実母を亡くしたように嘆き悲しんだ。
そして、私が預けた母の遺影に毎朝手を合わせるようになったと、志保の母が教えてくれた。それは私が大学を卒業して会社の寮に入るので一時的に預けた物で、私たちは未だ婚約もしていない時だった。
今でも毎朝、母の遺影に手を合わせて話しかける。
「昨日も幸せでした。今日も幸せになります」と、・・・。

少し記述が《愛妻日記》の本筋と離れたので、次回から修復します。

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